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    鈴木梅太郎博士について


    梅太郎"

    鈴木梅太郎博士は明治7年4月7日、堀野新田村(現在の静岡県牧之原市堀野新田)で、父庄蔵と母つたの次男として生まれました。 幼少より学問を好み、15歳のとき徒歩で単身上京、明治22年6月、東京農林学校予科に入学するも、翌年の大学再編に伴い改めて東京帝国大学農科大学予科を受験し合格しました。

    明治26年には東京帝国大学農科大学本科へ入学、特待生に選ばれる等優秀な成績を修め、明治29年7月には同大学農学科を主席で卒業しました。

    その後、同大学助教授となってドイツへ留学。ベルリン大学エミールフイッシャー教授の下でタンパク質やアミノ酸の分析について学びました。 明治43年、ビタミンB1の抽出に成功し、「オリザニン」と名付け、当時流行した「脚気」の治療に大きな貢献をしました。

    また人口合成酒を工業化し、大正11年に学士院賞を受領しています。

    昭和18年には、文化勲章を受章し、さらに昭和天皇より正三位勲一等を拝受しています。

     

    このように鈴木梅太郎博士は静岡県出身の世界的な科学者であり、青少年の夢を育む偉大な存在となっている人物です。

     

    鈴木梅太郎博士の主な経歴


    西暦
    年齢
    事項
    1874     榛原郡地頭方村(現在の牧之原市堀野新田)に鈴木家の次男として生まれる。
    1889 16歳 東京農林学校に入学する。
    1890 17歳 東京農林学校は農科大学(現在の東京大学農学部)と改称される。
    農芸化学科を専攻し、タンパク質についての研究を行った。
    1896 23歳 農科大学農芸化学科を卒業する。大学院へ進み植物生理学と栄養学を勉強した。
    1900 27歳 農科大学助教授となる。
    「桑樹委縮症病原論」によって農学博士の学位を得る。
    辰野須磨子と結婚する。
    1901 28歳 文部省留学生としてヨーロッパへ渡る。
    チューリッヒで有機化学を勉強、ベルリンでタンパク質化学を研究した。
    欧州人の体格を見て、日本人の体格の悪さは食物によるものと考え、帰国後ただちに日本人の主食である米の栄養についての研究を始める。
    1906 33歳 帰国して盛岡高等農林学校教授となる。また、東京帝国大学助教授も兼任する。
    1907 34歳 東京帝国大学教授となる。同時に盛岡高等農林学校教授も兼任する。
    1910 37歳 米糠から脚気に有効な成分を取り出すのに成功した。
    東京化学会例会で新栄養素オリザニン(後のビタミンB1)を発表。
    1911 38歳 東京化学会誌で新栄養素についての報告が掲載される。
    英国でポーランド生まれのフンク博士が鈴木博士とまったく同様の研究を行い、
    同様の結果を得、この成分を「ビタミン」と名づけて発表した。ビタミンは生活に
    必要なアミンという名で、たちまちこの言葉が世界の学会で受け入れられた。
    1912 39歳 三共会社からオリザニン液が発表される。
    1917 44歳 物理学・化学などの基礎研究とその研究成果を工業化する目的の理化学研究所がつくられた。
    鈴木研究室では合成酒(米を使わない清酒)・ビタミンA・ビタミンC・殺虫剤などの研究が行われた。
    1924 51歳 日本農芸化学会を設立し初代会長となる。
    1931 58歳 ビタミンB1の結晶化に成功した。
    1937 64歳 仏パリで開催の万国博覧会にビタミンB1の結晶を出品し名誉賞を授け
    られる。
    1943 70歳 文化勲章を受章。同9月20日、慶応病院において逝去。

     

     

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